或る日の風景、秋なのか。

或る日の店先。
通り掛かっただけの、でもとても素敵だと思った。
ここから物語が始まる、そんな店だった。

或る日の箸箱。
タイ料理屋のテーブルに置かれていた。
途端に東京から離れているような気分を味わう。

或る日の椅子。
旅先で訪れた幼稚園の椅子。
色も形も似ているけれど少しずつ違うところが子供たちと一緒だと思う。

或る日の紙袋。
友からのおみやげあれこれがゴンドラの紙袋に入っていて嬉しい。
わたしからの栗の模様の紙袋。

或る日の樹。
それはそれは立派な実のなるざくろの樹。
石榴。
柘榴。
種をこりこりとそのまま食べてしまう人がいた。
思いもかけないことだったので驚いたけれど、ずっとそうして来たと言うので、
それも様々かと思う。 

或る日の階段。
この階段を上ると図書室があるなんて知らなかった。
何十年もこの建物の前を通っていたのに。
用は無いが覗いてみる。
学生たちが勉強をしている。
年配の男性が受付で本の予約をしている。
ちゃんと機能しているらしい。
窓から陽が差して、本の背は色褪せている。
小さな図書室は、その狭さと西陽の入り具合から、彼らの居場所なのだと思わせた。
まるで行きつけの喫茶店のようだった。

或る日の夜空。
美しい月だった。
手を伸ばしても届かない、高い高いところからこちらを見ていた。

或る日の輝き。
「綺麗だなぁ」は「冬だなぁ」と同義語だと思った夜。
わたしの秋ははっきりとしないまま過ぎて行く。
家から15分ほど歩くと、紅葉のきれいな細い川があった。
けれど昨年の冬の始めに、それらの樹はあっけなく切られてしまった。
なにかの邪魔になっていたのだろう。
見るだけのこちらは、あんなに綺麗だったのに、と惜しむばかり。

11月だということさえ受け入れられずにいる。
立冬も過ぎ、季節が変わることにも、人の心の移ろいにもついて行けず、
変わらずにそこに在り続けてくれるものを探してしまう。
そこそこに秋らしい心持ちになっていることに、我がことながらうんざりする。
少し寒いだけで、気の持ちようがこうも違うものか。
日暮れ時には、お腹が空いて悲しい気持ちでいっぱいになる。
「夏が恋しい」は「冬籠りしたい」と同義語かも知れない。

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